他国における人の距離

今日は移動日。午前中にケルンの市内を観光して、午
後はデュッセルドルフからマンチェスターまで飛行機
で飛んでそれからリーズまで移動...の予定が、雪でフ
ライトキャンセルとなり、一日空港のホテルで過ごす
ことになってしまった。


さて、昨日、電車にのっているときに感じたのが、ド
イツ人は人と人が近いように感じた。電車の中で知ら
ない人同士でも普通に話す。若い女の子が知らないお
ばあさんの荷物をプラットホームまで仲よさそうに運
んでいたりしていたし。


でも、たぶん僕の場合、日本以外のどこの国に行って
もそういうふうに感じると思う。アジアに行っても人
と人が近いし、アメリカに行ってもそういうふうに感
じる。これはステレオタイプなんだろうか。あっ、で
も、ロシアはもっと人と人の関係が冷たいように思う
...。うーん、これはステレオタイプかもな、きっと。
まぁ、それでも、日本だと高齢者が電車にのっていて
も席を譲らない人がいたりするし、ましてや電車の中
で知らない人同士が話をするようなことはあまりない
と思う。こういうところが、個人主義が広がっている
一つの弊害のようにも思える。


でも、日本人がいいな、と思った点がある。いいとい
うか、たんに比べてみたときによかったというだけな
のだが。前にコロンビアに行って、友達のオスカルの
家に行ったことがある。そのときにオスカル自身は仕
事で向かえに来ることができなかったので、オスカル
のお父さんが空港まで迎えにきてくれた。その後、オ
スカルの家まで連れてってくれて、その家には、オス
カルのお父さんとお姉さんとお姉さんの娘の3人が住ん
でいる、と教えてくれた。で、家に入ってみると、女
の子が一人と女の人がいた。彼女がオスカルのお姉さ
んと姪っ子だと思ったのだが、姪っ子しか僕たちには
紹介してくれない。さらにお姉さんは僕たちに話しか
けようともしないのだ。そうこうしていると、別の女
の人が家に入ってきた。その人をオスカルのお姉さん
だと紹介してくれた。結局、もう一人最初からいた人
が誰かがわからなかったのだが、聞いてみるとどうや
らそれはお手伝いさんだということだった。お姉さん
も働いているし、姪っ子の女の子は病気で寝たきりな
のでお手伝いさんを雇っているということだった。で
も、たぶん、日本だったら、彼女はお手伝いさんで、
みたいな感じで紹介ぐらいはすると思う。でも、コロ
ンビアではそうではなかった。コロンビアに限らない
ことだと思うのだが、やはりそういうところで線引き
があるのはそういうカルチャーなんだと思う。


一方で日本だと、それだけ1日中家にお手伝いさんがい
てくれるとしたら半分家族みたいな感じで接するよう
になると思う。まぁ、昔でいう丁稚奉公の子どもみた
いな感じだろうか。そういう意味で、たぶん欧米の文
化では完全に雇用者と使用人という形で分かれるんだ
と思う。ある意味、経営者側と労働者側という感じな
んだろう。


日本ではあまりそういう経営者側と労働者側という線
引きの感覚がないがそれはみんなサラリーマンから出
世すると社長になるという、要は経営者は労働者の延
長線上にあるというシステムがそうさせているんだと
思う。まぁ、こういうところが日本はすごくグレーで
あいまいなところだ。


オスカルの家族の話についていえば、日本だったらこ
ういうグレー部分があって僕としてはそういう感覚を
「人の温かさ」という認識をするからすごくいいこと
だと思っている。でも、ある種会社という組織になっ
た場合はもちろんそういう家族的な組織体がよい方向
で働くことがあるのは事実だが、「会社」という実態
のないものに依存することになるという弊害もある。
それが組織の流動性を阻害し、リストラしにくい文化
を生んでいるように思う。