誠意を持っているか

先週に引き続き、今日の授業は、京都大学の富田直秀
先生が担当された。基本的に医療・医学とは解剖学的
に各部位(脳、心臓、目、歯、etc)やアプローチ(外科
、内科、精神科、整形外科)という形で機能的に専門
が分かれている。


富田先生はそれを超える形でそれらを非常に概念的に
話をしてくださった。いささかまとまりはなかった感
はあったものの、こうした切り口で医療・医学を捉え
る考え方は非常に斬新だったのと同時に、自分の頭で
考えるヒントを与えてくれたように思う。


授業が終わってから、「鳥の目、虫の目という観点で
医療考えたときに、企業に求められるものは何ですか
?」という質問をさせていただいた。


先生の答えは「誠意をもっているかどうか、というこ
とです。」というものだった。


もちろん私は、???という感じだった。


すると、次のように解説してくださった。


日本の医療機器の認可が厚労省から下りるのが遅いの
は、薬害エイズの訴訟があったからだ。要はリスクの
あるものを承認して何かあった場合に訴えられたので
はたまったものではない、という考えだ。だから、厚
労省の中には「僕は何も承認しない」と公言している
人すらいるという。
一方でアメリカの場合は、その時点で最善の判断をく
だした、というものが残るから、免責というわけでは
ないが、そこで訴えられることはないという。
厚労省もそうだが、基本的には日本の場合、医師がど
ういう治療をするにしても、患者はよくわからないま
まに「はい、お願いします。」というだけである。で
も、それでもし何かあった場合には大問題になるのだ
。つまり、十分な説明がなされないから問題になって
しまう。そこに必要なのが個のコミュニケーション、
つまり虫の目となる。
さて、ちょっと話がそれたが、医療というものを考え
たとき(医療に限った話ではないが)に、絶対というこ
とはありえず、必ず何らかのリスクは伴ってくる。要
はそれに対して誠意をもって判断したかどうか、それ
を残すことが大切なんだという。もし、将来何か問題
があったとしても、過去のその時点で、誠意のある判
断がなされたのであれば、その問題は企業にとっての
リスクとはならない、ということだろう。


では、誠意を持っている、とはどういうことだろう。
例えば、エンジニアが「これは僕が開発したすごい技
術だから絶対製品にすべきだ!」というのは誠意では
ない。これは私心である。患者さんであり、企業でい
えばお客さんの本当にためになるのかどうか、という
視点がなくてはならないのだ。


僕自身の所感としては、上記の例が誠意を持っていな
いことにあたるかどうかは微妙だと思う。よくエンジ
ニアなんかがみんなに大反対されながらも、画期的な
商品を作り、やりきったというような美談を聞く。こ
れは誠意があったというのか、なかったというのか。
「絶対お客さんのためになる」と信じていればそれは
誠意があるといえるし、「僕が見つけた画期的な発明
だ」というのが先にくれば誠意がない、ということに
もなる。考えてみて思ったのは、結局、私心があるか
どうかということにつきると思う。無私の境地で開発
したものであれば、それは誠意以外の何ものでもない
はずだ。僕自身の開発しているものはどうだろうか。
私心はないといえるだろうか。誠意をもっているかど
うかという視点に立てばもっといろいろ見えてくると
思う。


また、誠意をもっているかどうかのもう一つの判断ポ
イントは「想定外でした」である。仮にどんな問題が
起ころうとも「想定外でした」では通用しない。大切
なのは、想定外のことをどうマネジメントしたのか、
ということだ。それがあるかないかもポイントとなる



こういった分野が医学としてどういう学問になるのか
、ということも聞いてみたのだが、一つの考え方がリ
スクコミュニケーション、だという。元々は、原子力
分野の考え方でそれを医療に応用したもの、だという



これを聞いて思ったは、「交差点」ということだ。「
メディチインパクト」を読んだ中にあったのだが、
異分野のものが交差する場所に新しい概念が生まれや
すい、というまさにそれを地でいくような話しだった