官僚の心情

先日、柳田法相が辞任したが、そもそも本人の専門性・やり遂げ
たいという思い・資質に関係なく、大臣という職に誰がなるか決
まっているわけだから、何もできるわけがないだろう。専門性が
異なれども、丹羽大使が経営者から大使に横滑りする例はあるが
、それは資質があって成り立つことだ。当選回数と派閥・グルー
プをベースに大臣を決めておいて、そこで何かできると思うほう
が間違いだろう。結局、操り人形になるしかない。


まぁ、民間企業でも似たようなことがなきにしもあらずだが、そ
れでも、利益・売上という目に見えた結果が出てくる。特に右肩
上がりで誰がなっても、という時代はでなくなった今では、その
舵取り一つで結果は大きく変わってくるし、そこに責任が生じて
くる。


しかし、大臣は...というとその成果指標というものが何もない
と言ってもいのではないだろうか。そもそも何か使命を持ってな
るならともかく、それもないのであれば、官僚の言うがままに動
くしかなくなる。


では、官僚はというと、これは官僚に限らずだが、基本的に自分
たちの既得権益を守ってくれる大臣がいい大臣ということになる
。この辺りは民間の会社でも同じだろう。門外漢の人が事業部長
としてやってきたとしても、「今までと同じ通りやってください
」というのと、「これから徹底的にリストラします」というので
はまったく現場の受け止め方は変わってくる。


まぁ、官僚機構の場合、結局、誰が大臣になって何をやろうと、
結果の判断ができないわけだから、何とも判断のしようがなくな
る。そうなると、その中で、いかに官僚の利益を損なわないよう
に誘導していくか、とういのが重要になる。もちろん、官僚が全
国益を損ねるようなことをしているかといえば、決してそうい
うことはない。ただ、それは自分たちの既得権益が守られて初め
て...といったところだろう。人間とはそういうものだと思う。


目に見えるそうした指標がないからこそ、それを判断するために
あるのがジャーナリズムといったところなのだろうか。